事代主神(ことしろぬしのかみ)と聞いて、ああ、あの神様ね、と応えられたら相当なマニアックな方ではないでしょうか。大国主命の子で、“記紀”の「国譲り」の段で登場します。葦原中国(あしはらのなかつくに、日本)を統治するのは天照大神の子だ、という理由で強制的に譲るよう大国主命(おおくにぬしのみこと)に迫ります。大国主命は自分では応えずに、それでは子に聞いてくれ、と言って決断を委任されるのが事代主神です。委任された事代主神は、天津神の御子の仰せとあらば、という感じでこれを承諾する。それゆえ、「国譲り」ということになるわけですが、実際にはかなり大きな戦さがあったのではないかとそう想定され、「葦原中国の平定」と言われることもあります。日本には“八百万の神々”といって、たくさんの神様がいらっしゃいますね。山であったり、巨木であったり、大きな岩である場合もありますが、こういったアニミズムやトーテミズムとは別に、人形(ひとがた)の神様がその後信仰の対象となっていきます。この神様たちは、大きく分けると“天津神”と“国津神”に分類できます。“天津神”とはいわば邪馬台国系の神様で、高天原の天照大神を頂点に“記紀”の「神代」において活躍した神様です。一方、“国津神”とはその地域の土着の神様で大国主命などが代表格。しかしそもそも、この分け方それ自体が“記紀”によるもので、天照大神側からの名称です。歴史的には、北九州を中心に勢力を誇っていた邪馬台国とそれに与する国々に対して、出雲系の勢力が拡大していき、近畿や関東までをも覇権を広げっていった、という経緯があります。この出雲の拡大を危惧したのか、はたまた朝鮮半島や中国本土の情勢などを心配してかははっきりしませんが、邪馬台国が“東遷”を開始する。これが「国譲り」あるいは「葦原中国平定」と呼ばれるものであると、一般に考えられています。では、「国譲り」、「平定」という言葉から、出雲系の神様が高天原系の神様によって全く凌駕されてしまったか、というとそうではありません。どっこい出雲系はしっかりと生き残っていきます。その中心となって、ヤマト王権の中に食い込んでいったのが事代主神と大物主神(おおものぬしのかみ)です。大物主神とは、「出雲の国造り」の段で、大国主命の幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)、つまり大国主命の分身だと名乗って登場します。その後、崇神天皇の時代、疫病が流行して国民の半数以上が死亡するという大事件が起こるのですが、その原因は自分だ!として現れます。要するに“祟り神”であることを告白する。そして自分を手厚く祀るように要求する。大物主神とは、とても強くて怖い神様です。大国主命が“祟り神”となって現れたのかと思いますが、姻戚関係などから大物主神は事代主神の別名であるというのが、現在のところ一般的な見解です。つまり世代が一つ下がるというわけですね。「葦原中国平定」で大国主命はすでに幽界に退いているので、崇神天皇(第10代の天皇で、神武天皇と同一とする説もあり)の時代では、やはり事代主神ではないかと考えられています。であれば、事代主神はなぜ“祟り神”となったのか?大物主神について見ていきましょう。大物主神を祀っている神社は“大神神社(おおみわじんじゃ)”(奈良県桜井市)です。三輪山そのものが御神体で、主祭神として大物主大神をお祀りしています。最も古いとされている神社のひとつです。おそらく、出雲系の神々がこの地にくる以前から三輪山を信奉する人々がいて、信仰が根付いていたのではないかと考えられています。その後出雲勢が勢力をのばし、取り込んでいった。後発の高天原系の神様に対しては、抵抗したのではないでしょうか。「疫病の流行」はいつの時代にもありますが、いつまでも抑えられないのは、一つには政治が不安定であるからです。古代の人々が、地元の神様をないがしろにするからだ!と考えるのは当然ではないかと。実際には「神託」という形を取って崇神天皇を動かします。崇神天皇は、それまで、天照大神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を「大殿(みあらか)」に並べて祀っていました。しかしそれぞれの神の勢いが強くて畏れ多いということになる。このあたり、具体的にどんなことが起きたのか語られていません。そこへもってきて疫病の流行です。困り果てた崇神天皇は神のお伺いを立てたり、禊をしたり。占いをすると大物主神が現れます。さらに夢にも大物主神が現れる。天照大神と倭大国魂神、さらに大物主神と三柱の神々が三つ巴のような状態になります。結局、倭大国魂神は市磯長尾市(いちしのながおち)が神主となり、大物主神は子(あるいは子孫)の大田々根子(おおたたねこ)が神主となって奉斎することに。天照大神については、崇神天皇の娘である豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が倭の笠縫邑(かさぬいむら)に祀る、ということでひとまず安泰となる。一見すると落ち着いてやれやれということですが、よく見るとどうでしょう。倭大国魂神は大和の地主神で、長尾市は倭国造、つまりは地元の大和。大物主神は出雲系で、大田々根子はその子ですからもちろん出雲系です。そして天照大神は高天原系、つまり邪馬台国系で豊鍬入姫命も邪馬台国系。要するに、それぞれが各々の祖神を祀るということで安定を見た、ということになります。そもそも崇神天皇が天照大神と地元の神様を一緒の祀ってしまっていたのが間違いだったようだし、大物主神については、どうも最初のうちは蔑ろにしていた節がある。しかしこれを契機に、各々神主を設けて鎮座し奉斎されます、それぞれが別々に!ヤマト王権の宗教政策は、まだ試行錯誤の段階であったのかもしれません。“宗教”を前面に押し出して、覇権を拡大していった“出雲”とは対照的ですところで、事代主神の二人の娘はそれぞれ神武天皇と第2代綏靖天皇の皇后となっています。征服者が被征服者の娘や妹を娶る。事代主神にとって血脈を残したことになりますが、このこと自体古今東西よくある事です。先に述べたように、事代主神が大物主神と同一神であるとすると、どういうことなのか?一方ではヤマト王権に入り込みながら、他方ではヤマト王権に対抗する。表向きには帰順して娘を差し出しておいて、父である大国主命を幽界へと追いやった恨みはあったのではないか。たとえ事代主自身でなくても、そのまわりの出雲勢にその気持ちはなかったか。正しく歴史を書きのこすことは、ある意味で征服された人々、滅亡した氏族への鎮魂である、と述べた研究者がいます。事代主神を“祟り神”とすることで、邪馬台国勢に一矢報いたという構図を作りたかった、と考えてもさほど間違いではない。と同時に、ヤマト王権に対する“不満”や“反発”が事代主神を“祟り神”へと押し上げた、ということもできます。果して事代主神は何を思ったのか?まだまだ基盤の定まらないヤマト王権。その黎明期に起こった出来事を見ていくことで、「国譲り」で支配の第一線から退くことを余儀なくされた出雲の神様の行動を検証していきます。
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