18世紀初頭より東洋進出を行ってきた西欧諸国は日本の開港をも望み、宣教師とともに日本の祖法とされた強固な禁教の扉をこじ開けようとする。1842年のアヘン戦争が終わると、まずプロテスタンとのギュッツラフが那覇に上陸、次いで1842年にはパリ外国宣教会のフォルカードを那覇に上陸させた。武器をもたない琉球王国はどうすることもできなかったが住民は命をかけてこれを拒み続けた。1853年、ペリーが下田に来て通商条約を要求、翌年には日米和親条約が締結され鎖国が崩れた。宣教師たちも軍隊と共に上陸した。しかし江戸幕府は祖法である禁教令は解除しなかった。そんな中、長崎でプチジャン神父は歴史的な信徒発見をする。それまでは良かったが、その後プチジャン神父を始めローカニュ神父らはフランス公使の布教中止の命令も聞かず、「悪いのは日本政府」と決めつけて強硬に秘密布教を続けた。しかしこれは条約違反であった。この秘密布教によって、それまで「異宗」と言われていた信徒たちは来世思考が強くなり、一神教として「キリシタン」を表明した。その結果、浦上四番崩れや五島崩れといった一連の迫害事件が発生し、殉教者まで出すに至った。多くの著書は、プチジャン神父らの布教の苦労と潜伏キリシタンの復活への切望で飾っているものが多いように思うが、私は諸手を上げてプチジャン師らの行動を賞賛する気にはなれない。勿論日本の禁教の法が良いとは言わないが、もし秘密布教がなかったならばあのような悲惨な事件は起こらなかったはずである。禁教下でのプチジャン神父らの行動は果たして賞賛されるべきことだったのか。軍隊と共に上陸した彼らには侵略的な思想はなかったのか。そのような方向からも考察してみた。私はプチジャン神父らにはもう少し自粛してほしかったと思う。その後アメリカや西欧諸国はいっせいに日本の迫害と禁教制度を非難した。明治政府は禁教の法を置き去りのまま外国との交渉は困難とみて明治6年には禁教の高札を撤去した。しかしキリスト教布教を公認したわけではなかったが、次第に黙許の状況となり、いっせいに復活が進んだ。天草のキリシタン復活は禁令高札の撤去後であったために比較的穏便に進んだ。しかし一方では旧水方を中心に復活を拒み、そのまま先祖の儀式を続けるキリシタンも少なくはなかった。明治13年よりボンヌ神父、フェリエ神父、ガルニエ神父、そしてハルプ神父が定住したがそのよの様子も描いてみた。(1部) 「復活へ の道のり」 日本を目指す 宣教師たち 1章 日本を目指す宣教師 たち 2章 日本の開国 とキリスト教3章 信徒発見と秘密布教 4章 浦上四番崩れ 5章 五島の迫害 6章 禁教令高札の撤去 7章 「皇祖皇宗の国」神道国家の形成 とキリスト教(2部) 天草のキリシタン復活と宣教師 1章 天草キリシタンの復活 2章 宣教師の定住1、ボンヌ神父の定住 2、フェリエ神父の開拓と奄美大島布教 3、天草の土となったガルニエ神父 附章 「五足の靴」4、ハルブ神父の来島 5、天草で初めての司祭:大崎八重神父 附章 「根引の子部屋」
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