少し内容に触れてみよう。この小説では、アンスリューとアジズ父子の没落とハキムの成功の対比が物語の骨格となっている。主人公である「戦略家」は、アジズを指している。まず、アジズの没落は、イスラム教系NGOへの過度の依存によるものとして描かれている。一部の過激派による爆破事件がNGOの終焉を導き、それがアジズの名誉と信用を傷つける。その結果、彼らの資金調達が難しくなり、ビジネスは破綻するのである。また、NGOを通して雇用した人材の無能は、やがて彼のビジネスの負担となっていく。ここでもNGOとの結びつきが逆効果となる。もちろん、彼のビジネスにおける野心的な拡大は、彼自身の問題であってNGOとは直接には関係が無い。だが、もしNGOの支援が無ければ、アジズはそのようなリスキーな戦略を選択したのであろうか。いずれにしても、彼は「資金調達」と「人材管理」という二つの点で、大きな過ちを犯している。アンスリューもまた、一連のNGOの事件の被害者である。彼が周囲の人々から受けていた尊敬と名声は、息子たちのビジネスの成功や彼らのNGOとの結びつきに依っていたが、ひとたびNGOが瓦解すると、彼はすべてを失ってしまう。ところで、彼は狡猾な男ではあるが、決して本当の悪人ではない。子供たちに対する権威的な態度も、決して悪意からではない。彼はただ無知なのである。彼は、「ドバイへ行くこと、すなわち成功」という単純で型にはまった固定観念を抱き、社会の変化に柔軟的に対応することができない。彼の無知、言い換えれば教育の欠如が、彼を気まぐれへと導く。アンスリューの場合、その盲目的な拝金主義と物質主義もその没落の副次的な原因となっている。しかしながら、私には、彼らの没落の本当の理由が時代の趨勢だったのではないかと思える。車がバイクに取って代わり、電話が携帯電話に進化したように、私たちの社会は絶えず発展している。アジズがビジネスを始めた頃のドバイは、インフラが先進的で、給与も高く、ビジネス・チャンスも大きかったのだろう。インドはその頃、まだ貧しかった。しかし、直近の20年間でインドは南アジアの経済大国として成長した。ドバイと同じ商品がケララでも、インドのどこでも手に入るようになった。しかし、アンスリューとアジズの父子は、このような社会の変遷に順応できなかったのではないだろうか。「おまけに、大部分の日用品はインドでもよい値段で手に入った。それは、政府の自由化政策のおかげだった。変化したインドの経済政策は、インドの市場が更に多国籍の人々に解放されたので、国を助けた。彼らはインドで製造を始め、ケララでもより良い、より安い製品が現れた。その結果として、インド人社会は、休暇で国に帰るとき、ペルシア湾で買物するのを避けた。」(第4章16節)グローバリゼーションに伴って、消費者のニーズが変化するのは当然のことだ。具体的には、人々は以前ほど価格を重視せず、商品の質を求めるようになったのではないかと思う。「それは、新しい装置を売るとか、先進の製品を売るとかいうことではなかった。顧客たちは、それぞれの製品に付加的な価値を求めていた。変化は、人々の見通しの中に更に明らかだった。」(第4章39節)ビジネスは、新しい価値を創造しなければならない。商品を仕入れ価格より高く販売し、差益を得るだけのビジネス・モデルは、どこかで行き詰まってしまう。この点についても、店舗数の拡大にのみ焦点を合わせたアジズのビジネス戦略は誤りであったと言わざるを得ない。インド社会におけるもう一つの大きな変化は、女性の地位の向上だろう。小説では、古い世代の女性であるナシマと、新しい世代の娘のメへー(そして、おそらくノーラとルファイダ)が対照的に描かれている。ナシマはまた、彼女の父の思考の代理人であるとも言える。旧態依然のアンスリューは、女の子が家族の負担であると考え、女性が教育を受け、社会で活躍できるとは決して信じられない。メへーが医科大学に入学した後、彼の固定観念も徐々に崩れていくが、それでもなお、彼の「ドバイに対する信仰」は消えていない。メへーの反論は辛辣である。「インドにいいチャンスがある。インド人は、才能のある医療専門家のサービスが必要なの。最終的に、私たちは先進国になって来た。それなのに、どうして他の場所に行ってサービスしなきゃならないの。」(第3章30節)さて、もう一人の「戦略家」であるハキムについて一言述べよう。私は経営管理の専門家ではないので、彼のビジネス・モデルについてのコメントは差し控える。ただ、彼は最初から成功者であった訳ではない。念願であったマネージャーへの昇進にも拘わらず、彼は大きな挫折を経験する。そして、再び、販売代理人として個人のビジネスを立ち上げる。彼の努力とその強い意志力は称賛に値する。アジズからの投機的なビジネスの誘いを断り、地道に安全な道を選ぶ。彼は野心家ではなく、そこにある物で満足することを知っている。ビジネスのために借金をしない。その職業に対して正確な知識と経験を持っている。これらはすべて、彼の成功の理由であろう。最後に、ハキムが本当の成功者であるかどうかについて、私の個人的な感想を述べたい。残念ながら、彼は妻の病気を早期に発見することができなかった。ビジネスで成功することと、人生で成功することは、同じではない。ハキム自身が言っている。「人生における成功は、何か違ったものだ。」(第4章、50節)人生において究極的に追及すべき価値は、家族の健康、そして幸福ではないだろうか。その意味において、私はハキムを本当の成功者と呼ぶことができない。シェリフ博士の小説「ある戦略家の没落」は、虚構という形を取ってはいるが、前世紀後半のインドの新興中間層の生活・行動様式を如実に反映している。そして、インドでは少数派であるイスラム教徒の団結、中東のイスラム社会、とりわけドバイでのビジネス・チャンス、イスラエルによるパレスチナ攻撃、イランの反国王デモなど、実際の歴史的事実が小説に織り込まれている。その意味で、これはアンスリュー一家だけの物語ではなく、普遍的な価値のあるインド人家庭の一大絵巻と言えるのではないだろうか。インドの社会・文化・宗教に興味のあるすべての人に読んで欲しい一冊である
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