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小説日本書紀38清寧 清寧は即位できず内乱状態の5年

魑魅魍魎の古代史の糸を解きほぐし韓隠しを指弾する驚天動地の新解釈小説日本書紀38清寧 清寧は即位できず内乱状態の5年序言 『日本書紀』は〝韓(から)隠し〟の歴史小説 前著『小説日本書紀37雄略 雄略は沸流百済の後裔』では、『日本書紀』は、日本の歴史がこうあってほしいと願った歴史小説だと断じたのじゃ。 日本列島にはもともと縄文人と呼ばれた人種が居住し、縄文文化を花咲かせていたと見られているのじゃ。そこへ、弥生人が日本列島の中央に進出し、縄文人は北と南に追いやられたのじゃ。それが、現在の北は蝦夷人であり、南は沖縄人と見られているのじゃ。縄文人と弥生人が断絶していることは考古学の定説なのじゃ。 その弥生人とは韓地から渡来した天孫族と呼ばれる人種であり、現在の日本人は、その弥生人を源流としているのじゃ。しかしじゃ、日本の史学界は、当然の法理のごとく、列島自生論を展開し、日本人の源流を縄文人に求めているのじゃが、とんでもない錯誤といわなければならないじゃろ。 民俗学と称して、日本人の源流に東南アジアの影響が見られるとか、なんだかんだの屁理屈のような論述を展開して、読む人をまどわしているのじゃ。それらの影響は、韓人が受けていたものであり、その韓人が倭地に渡来したがゆえに倭人と称され、もとの韓人と区別されて、あたかも倭人、つまり日本人が受けているように錯覚されて論述されているのじゃ。とんでもない悪意の〝韓(から)隠し〟と言わなければならないじゃろ。倭人というのは最初に韓地から渡来した人たちという説もあることを肝に銘じなければならんじゃろ。 日本史学界は、日本の文明・文化が中国の影響を受けて発達したかのように記述しているのじゃが、中国の文化人らが渡来したという記述は少なく、圧倒的に新羅、百済、高句麗、すなわち韓地からの渡来人なのじゃ。植林しかり、織物しかり、仏教しかり、で、そうであれば、日本の文明・文化は韓地からの渡来人がもたらしたもののはずじゃ。 日本古代史の定説は、『記・紀』、すなわち『古事記』と『日本書紀』に基づくもので、壬申の乱に勝利した天武天皇(在位:673年~686年)の勅により、『古事記』は太安万侶が編纂して712年(和銅5)に、『日本書紀』は舎人親王らの撰で720年(養老4)に完成したのじゃ。 平安時代の「日本紀講筵と竟宴」という宮廷行事の学習が設けられ、全国の官僚が出席して『日本書紀』の講義を受け、終わると土産を受け取って帰っていったということじゃ。以来、『日本書紀』が正史とされ、『古事記』は顧みられなかったということじゃが、江戸時代になって、本居宣長が『古事記伝』を著し、『古事記』も陽の目を見るようになったということじゃ。 明治時代になると、『記・紀』が絶対視され、怪談まがいの歴史も史実とされ、強要されるようになったのは記憶に新しいはずじゃ。そうした歴史教育も昔話になっているようじゃが、そのなかでも最大の罪悪は〝韓隠し〟といってもいいじゃろ。 〝韓隠し〟を徹底している『日本書紀』ではあるのじゃが、韓地からの渡来が随所に見え、それらを朝貢のような形で記述しているのじゃ。実際は、技術を教えたりして、その地の文化向上に貢献しているのに、どうみても辻褄の合わない記述をしているのじゃ。 韓を漢、唐などに書き換えて、〝韓隠し〟をしているとはよく指摘されることで、韓地を飛び越して中国に結び付けるということは、韓地の文明・文化も中国の影響を受けていることが少なくなく、直接中国からの影響といっても、結果的には誤りではないのじゃ。 しかし、商売の世界では、飛び越しはご法度であり、浪速の商売人はそれを美風としたはずじゃ。紳士淑女の集まりである学界で、飛び越しが堂々と許されている現実をどう解釈すればいいのかのお。そのことは、『日本書紀』が史実を記録した史書ではなく、日本の歴史がこうあってほしいと願ったフィクション、歴史小説であることを暗喩するものじゃ。 とまれ、今回の『小説日本書紀38清寧 清寧は即位できず内乱状態の5年』では、どのような実像が浮かびあがってくるのかのお。 なお、底本は、宇治谷猛現代訳『日本書紀』じゃ。漢数字は引用文を除いてアラビア数字にしたので了承願いたいのじゃ。〔追〕尊称の尊・命・神などは引用文などやむを得ない場合を除いては省略し、天皇は大王に、皇子は王子に、皇后は正妃に、媛や皇女は姫に、それぞれ表記しているので了承願いたいのじゃ。  2020年7月 ハンデウン目次序言 『日本書紀』は〝韓(から)隠し〟の歴史小説〈清寧紀〉 大略『古事記〈清寧記〉』 大略星川王子に叛乱をそそのかした生母の稚姫大和王朝にとっては目の上のタンコブの吉備勢力清寧朝を支えた大伴室屋大連最初に日本へ渡来した人たちが倭族清寧は新羅系山陰王朝系の激しい抵抗に遭う飯豊青姫の不交宣言は清寧との関係を清算するという意味葛城の古墳出土の鉄刀の原料は韓地伽耶の砂鉄飯豊青姫は倭直(丹後)の祖神を祭祀した日本根子(やまとねこ)の諡号を持つ扶余系葛城王統日本足彦(たらしひこ)の諡号は扶余系海人族の王統雄略により葛城を追われた葛城一言主こと鴨建角身陸奥に蟠踞した大伴氏や久米氏山部連は来目部(久米部)から改姓した清寧朝に豊城入彦の8世孫の桑原臣多奇市が但馬で絹織葛城円臣家滅亡後の葛城王国の頭領は平群臣家丹後に由縁の飯豊青姫と顕宗・仁賢『古事記』では飯豊青姫は市辺押磐王の妹億計・弘計兄弟の大和入りは飯豊青姫を奉じた平群臣の動きに呼応したもの〈清寧紀〉はクーデターの実相を覆い隠したもの新羅系山陰王朝の聖地であった三輪山朝廷の守護を努めた蝦夷と隼人歌垣に見る袁祁(顕宗)と平群臣の争い白髪は韓語で百済のこと清寧の坂門原陵は規模が小さく大王陵ではないと結語 飯豊青姫の不交宣言はクーデター宣言星川王子に叛乱をそそのかした生母の稚姫 雄略が没すると、星川王子が謀叛し、その謀叛に吉備上道(きびのかみつみち)臣らが船師40艘を率いて星川王子に呼応したのじゃが、時すでに遅しで、星川王子らが焼き殺されたと聞いて引き上げたのじゃ。乱は1ヶ月ほどで鎮定され、大伴室屋大連らが太子(清寧)に大王位の璽を奉ったことにより、清寧が即位したのじゃ。僧永祐が鎌倉末に撰したと伝えられる『帝王編年紀』によれば、雄略の没年を479年(己未)とすれば、そのとき清寧は34歳であったとしているのじゃ。 星川王子の謀叛を懸念していたという雄略は、臨終の床で、大伴室屋大連らに、太子である白髪武広国押稚日本根子(清寧)を守り立てるように遺言したのじゃ。その遺言を受け、大伴連室屋らは、謀叛の星川王子を焼き殺し、臣・連らを率いて清寧を擁立したのじゃ。換言すれば、星川王子の謀叛を鎮圧した大伴室屋大連の軍事力に支えられて、清寧朝が誕生したことになり、その室屋のときから大伴連が台頭してきたのであろうと見られているのじゃ。 叛乱をそそのかしたのが生母の稚姫で、吉備上道臣田狭の妻であったのじゃが、妻の美貌を自慢する田狭は、雄略によって、任那に追いやられ、妻の稚姫(別名毛姫)を奪われてしまったのじゃ。田狭は、雄略の専横に対する宿怨を秘めていたと思われ、任那で新羅と結んで叛乱を試みようとしたのじゃが、事は成功しなかったのじゃ。別伝に田狭は雄略によって殺されたとあるのじゃ。 清寧の治世はわずか5年で、484年に子がないまま崩じ、『古事記』も『日本書紀』も、清寧には后妃がなく、子がないと記すのじゃが、『先代旧事本紀』に、「諱天国排国廣庭尊(欽明)者男大迹天皇嫡子也。母曰皇后(午)手白香皇女、清寧天皇皇女也」とあり、清寧の子として、手白香姫を記しているのじゃ。とまれ、市辺押磐王の妹である飯豊青姫(忍海郎女)が忍海角刺宮で10ヶ月ほど称制した後、顕宗が即位したと記すのじゃ。結語 飯豊青姫の不交宣言はクーデター宣言 今回の『小説日本書紀38清寧 清寧は即位できず内乱状態の5年』では、雄略の没後に内乱状態となり、星川王子の挙兵に呼応した吉備上道臣らの船軍40艘を率いたことや、吉備臣尾代の配下の蝦夷の乱もそうだというのじゃ。ほかにも記録に残されていない多くの群雄の蜂起があったろうと見られているのじゃ。 それに、飯豊青姫の不交宣言は、誰しも奇怪に思う事態であろうと考えられ、なぜ〈清寧紀〉に記述されているかということじゃが、それは、清寧との関係断絶を暗喩するものであるとするなら、〈清寧紀〉のありようが明瞭に理解できるようになるのじゃ。 すなわち、飯豊青姫は清寧の正妃であったことを暗喩するものであり、妃もなく子もないという清寧は、実は手白香姫という娘がいたことを、『先代旧事本紀』は記しているのじゃ。 飯豊青姫が清寧の正妃であってこそ、飯豊青姫の称制がなり立つことになるのじゃ。だれもかれもが称制できるわけではなく、誰もが認める条件が必要となるのじゃ。その条件こそが、飯豊青姫が清寧の正妃であったということじゃ。 清寧は、『記・紀』に影の薄い存在として描かれているのじゃが、それは、清寧が実際に即位していたかどうかの疑問にも通じているのじゃ。清寧2年に、子がない清寧のために白髪部(舎人・膳・靱負)を置いたという記事に続き、伊予来目部小楯が、市辺押磐王の子の億計(仁賢)、弘計(顕宗)を発見し、翌年には宮中に迎え入れたと記すのじゃ。

著者:ハンデウン
ASIN:B08DNSGV15
ページ数:73ページ
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