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小説日本書紀39顕宗 顕宗の母系はアマノヒボコの後裔

『日本書紀』の〝韓隠し〟を指弾する新解釈で真実に迫る小説日本書紀39顕宗 顕宗の母系はアマノヒボコの後裔序言 〝韓(から)隠し〟を〝正統〟史学のように見なす 前著『小説日本書紀38清寧 清寧は即位できず内乱状態の5年』では、雄略の没後に星川王子の叛乱に吉備勢力が呼応し、蝦夷の勢力も乱を起こすなど内乱状態となり、清寧は即位できずに消えていった存在であったことを明らかにしたのじゃ。 それに、飯豊青姫の奇妙な不交宣言があって、飯豊青姫が10ヶ月ほど称制したのじゃ。その不交宣言はクーデター宣言であったのじゃ。つまり、飯豊青姫は清寧の正妃であったからこそ、誰もが認めざるを得ない称制が可能であったということなのじゃ。 『記・紀』には、清寧は妻もなく子もないと記されているのじゃが、実際は、『旧事本紀』に手白香姫という娘がいて、第26代継体の正妃となっているのじゃ。それは、清寧と飯豊青姫との間の子であろうと見られているのじゃ。飯豊青姫の不交宣言は、清寧との離婚宣言であったということじゃ。 飯豊青姫の称制を実現させたのは、平群氏を中心とする勢力だと見られ、その後に、顕宗が即位するのじゃが、播磨の地で億計=意祁(仁賢)・弘計=袁祁(顕宗)の2王子が発見されたことを、清寧は喜んだとしているのじゃが、その時はもう清寧はこの世の人ではなかったと思われるのじゃ。 清寧を亡き者にしたのは、あるいは飯豊青姫ではなかったかと考えられるのじゃが、実際は平群氏の勢力であったろうと思われるのじゃ。飯豊青姫の称制が10ヶ月と短く、しかも死亡したとされることも、実に疑惑の多い叙述だと考えられ、平群氏の専横があったとも考えられるのじゃ。 そのため、歌垣の故事にかこつけて、平群の鮪(しび)を暗殺した顕宗は、平群氏勢力を一掃したと考えられるのじゃ。その際、飯豊青姫も抹殺されたのか、あるいはすでに平群氏勢力に抹殺されていたのかは定かでないのじゃが、顕宗の後ろ盾であったはずの飯豊青姫が朝廷から姿を消したことは確かなのじゃ。 日本史学界は『記・紀』を絶対視する史観を貫き、〝正統〟史学のように見なして、異端の説を認めない体質になっていると指摘する研究者も少なくないのじゃ。その最大のものが、〝韓(から)隠し〟に徹しているということじゃ 〝韓(から)隠し〟のデパートとも称される『日本書紀』でさえ、韓地からの渡来が随所に記されているのじゃが、当然の法理のごとく、日本列島自生論を振りかざす日本史学界の正統史学は、言葉明瞭、意味不明のへんてこりんな逆転の論理を展開して、屁理屈を並べ立てているのじゃ。 説明がつかなくなると、神話的の話にすり替えたり、証拠がないとか、あるいは韓半島を大陸とかと言い換えて言外に中国大陸を意識させるような論述で、逃げの姿勢に徹し、ダンマリを決め込んでしまうのじゃ。 学問は真実を追求すべきものであり、国威宣揚のために真実に目をそむけるべきではないはずじゃ。敢えて言いたいのじゃ。韓地からの渡来なくして、倭地の文明開化はなかったと。 とまれ、今回の『小説日本書紀39顕宗 顕宗の母系はアマノヒボコの後裔』では、どのような実像が浮かびあがってくるのかのお。 なお、底本は、宇治谷猛現代訳『日本書紀』じゃ。漢数字は引用文を除いてアラビア数字にしたので了承願いたいのじゃ。〔追〕尊称の尊・命・神などは引用文などやむを得ない場合を除いては省略し、天皇は大王に、皇子は王子に、皇后は正妃に、媛や皇女は姫に、それぞれ表記しているので了承願いたいのじゃ。  2020年8月 ハンデウン目次序言 〝韓(から)隠し〟を〝正統〟史学のように見なす〈顕宗紀〉 大略『古事記〈顕宗記〉』 大略意祁・袁祁はアマノヒボコに由縁の名称袁祁(顕宗)は和珥氏族の遠祖の袁祁都比売と同族葦田宿禰の子の蟻臣は鴨氏族石上神宮は銅器文化の聖地丹波・赤石・石上は銅器文化で繋がる地袁祁=弘計(顕宗)を2分割して顕宗と仁賢の兄弟に平群氏族が飯豊青姫の称制を実現葛城と吉備はアマノヒボコ族を介して結合顕宗朝はアマノヒボコ王朝の再興意祁(仁賢)・袁祁(顕宗)の後ろ盾となった和珥氏族顕宗・仁賢の隠匿に大きな働きをした丹後日下部氏武内宿禰の後裔とされる平群氏忍海は伽耶の鍛冶技術者らが進出した地百済史を下敷きにしている〈顕宗・仁賢紀〉倭(日本)語は韓語から転化したもの石上神宮に大伴・佐伯の2殿があった顕宗の宮居の場所が特定されていない弘計(顕宗)・億計(仁賢)を匿った海部直一族丹後各地に残る億計・弘計2王子の伝説大和王朝に深く関わっていた丹後海部氏族やってきた白衣の異人を祀った大川神社三茎の草を顕宗に献上し三枝連を賜る和泉国猪甘部と山代国猪甘部の2流縮見の里は現在の兵庫県三木市志染町付近宗賢神社と宗像神社とが混同されている来目部小楯の山部連賜姓の以前に山部が存在弘計が奏した室寿(むろほぎ)は新羅系山陰王朝の伝統『旧事本紀』の佐布古直と『海部氏系図』の稲種直は同一人物神服連・海部直・丹波国造・但馬国造等の祖の建田背は丹波道主スサノオ・イタテはアマノヒボコの先祖対馬の日神と壱岐の月神が大和に遷祀紀伊国造と中臣氏とは山祇族系統から出た同族天日神が神仏習合によって照日権現に絹織物や酒、胡麻、生姜、蒟蒻なども外来品百済氏(くだらし)→朽飯(くだし)→朽飯(くちい)と転訛新羅系山陰王朝と百済系大和王朝との正統性を問う暗闘倭の実体は沸流百済で温祚百済との戦い『記・紀』と矛盾すれば誤写・誤脱論をふりかざして悪意に修正『記・紀』に合わなければ退けられる系譜史料『帝王編年紀』や『扶桑略記』は『記・紀』の虚構を暴露雄略享年の10年差のカラクリ結語 意祁・袁祁はアマノヒボコに通じる名称意祁・袁祁はアマノヒボコに由縁の名称 『日本書紀』の弘計(顕宗)は、『古事記』には袁祁、『旧事本紀』には雄計と記されているのじゃ。別名は来目稚子というのじゃ。兄の億計は、『古事記』には意祁とあるのじゃ。 意祁・袁祁の2王子は、父である市辺押磐王を近江国愛智郡の来田綿蚊屋野で、雄略によって謀殺され、丹波国の余社(与謝)郡に逃れ、さらに播磨国の赤石(明石)郡に隠れて、名も丹波小子(わらわ)と変えたのじゃ。 『古事記』によれば、彦坐王は意祁都比売を生母とし、母の妹である袁祁都比売を娶ったということじゃが、その意祁・袁祁が、仁賢(意祁)・顕宗(袁祁)兄弟と同じ表記であり、深い繋がりがあるのではないかとされているのじゃ。 『倭姫命世記』によると、丹波国余佐郡から伊勢国渡会郡へ豊受大神の遷祀が行なわれ、外宮に祀られたのは雄略22年のことで、豊受大神は大宜都比売神のことだというのじゃ。『古事記〈仁賢記〉』では、意祁のことを意冨祁とも呼んでいるから、大宜都比売神と意祁都比売とは同じ呼び方になり、豊受大神=大宜都比売神=意祁都比売ということになるのじゃ。 他方、丹後の祖神である豊受大神が、雄略朝に伊勢に遷祀されたことは、丹後の国譲りを表わしているという見方があるのじゃ。 意祁都比売・袁祁都比売は、海人族とされる和珥臣の娘であり、豊受大神=大宜都比売神=意祁都比売が丹波国与謝郡から伊勢国渡会郡へ遷祀されたということは、宗像海人族の移動に伴って遷祀されたということになるというのじゃ。つまり、和珥氏族が日本海から太平洋へ移動、進出したことを示唆するということじゃ。 伊勢神宮に、アマノヒボコ(天日槍)の影響が見られるという指摘は、その和珥氏族の移動進出と関係があると見られているのじゃ。というのも、彦坐王はアマノヒボコと同一とされる人(神)格であり、和珥氏族もアマノヒボコ族の一つと見てもいいと思われるからじゃ。であれば、意祁・袁祁という名称はアマノヒボコに由縁の名称ということになるのじゃ。結語 意祁・袁祁はアマノヒボコに通じる名称 『古事記』が記す意祁・袁祁の2王子の名称は、彦坐王に由縁の意祁都比売・袁祁都比売の姉妹の意祁・袁祁と同じなのじゃ。彦坐王はアマノヒボコ(天日槍・天日矛)と同人(神)格とされているから、意祁・袁祁はアマノヒボコに通じる名称ということになり、アマノヒボコの後裔と見ていいことになるのじゃ。 ただしそれは、母系の面からいえることで、父系の面からは、沸流百済系の大王であることに間違いはないのじゃ。ところが、子は、母系に影響を強く受けるものであり、母系社会を体現する存在だといっても過言ではないのじゃ。 顕宗・仁賢2王子を生んだ生母は姫とされ、その系譜は、葛城襲都彦→葦田宿禰→蟻臣→姫=市辺押磐王→[居夏姫+億計王+弘計王+飯豊青姫+橘王]というものじゃ。姫の父の蟻臣の蟻は、韓語でアリ・アルと訓まれる鴨の氏族であることを暗喩しているのじゃ。 兵庫県豊岡市中郷森下に鎮座する葦田(あしだ)神社の祭神は、天麻止都袮(あまのとつね)で、アマノヒボコの随神である天目一箇(あまのひとつね)と同人(神)格とされているのじゃ。姫の祖父の葦田宿禰は、その祭神の後裔という可能性もあるのじゃ。億計・弘計の兄弟は母の姫の影響を強く受けたと思われ、アマノヒボコ王朝の栄光を憧れにしたとも考えられるのじゃ。 

著者:ハンデウン
ASIN:B08GJTDPSZ
ページ数:100ページ
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